陸前高田から学ぶ防災の教訓~我が町を守る!陸前高田市消防団の活動~

東日本大震災の体験から防災を学ぶシリーズ最終回は、陸前高田市消防団の皆さんにお話を伺いました。津波と火災にみまわれた陸前高田市の街を守るために懸命の努力をした消防団の方々の体験から、私達も“みらいの防災”につながる手立てを考えてみましょう。

災害の現場に駆けつける消防団の救助精神

消防団という組織について、よくご存じではない読者の方も多いかもしれません。消防団員は専業ではなく、ふだん仕事を持って働いている一般の人達が、管轄の地域で災害が起こると現場に駆けつけて救助や防災活動にあたります。自治体によって報酬規定は異なりますが、その活動の基盤は消防団員のボランティア精神によって支えられています。

東日本大震災でも阪神・淡路大震災でも、消防団は災害の現場で消火や救助・救援にあたりました。東日本大震災の現場では、住民の誘導や水門の閉鎖などの活動にあたり、残念なことに多くの消防団員の方々が殉死されました。

陸前高田市消防団は、陸前高田市の8つの町に8つの分団が置かれています。今回集まってくださったのは、震災時も各分団で活躍された8名の消防団員の方々と、1名の消防職員の方です。

陸前高田市消防団の皆さん。写真前列左から、村上 剛さん(小友分団)、副団長 河野吉昭さん(気仙分団)、団長 渡邊克己さん(横田分団)、中山一彦さん(米崎分団)。写真後列左から、齋藤浩之さん(小友分団)、村上桂さん(横田分団)、佐藤一男さん(米崎分団)、及川満伸さん(高田分団)、金野隆博さん(消防署)。※分団名は震災時の所属分団、職名は2015年2月現在のものです。

陸前高田市では、8つある町のうち7つの町が津波の被害に遭い、当時浸水によって3つの地域に分断されました。8つの町のうち、3つの町が海に面していませんでしたが、結局津波の被害に遭わなかったのは一番内陸側に位置した横田町だけでした。

①広田分団

陸前高田市内の広田半島内にある町。半島の根元の小友町が低地のため、太平洋と湾内の両方から津波が襲ってつながったため、孤島となりました。さらに火災が発生した地域でもあります。

②小友分団

広田半島の根元にある町。太平洋から来た津波と湾内から来た津波により、町を二分され、一方は広田町とともに孤島となりました。

③米崎分団

広田湾内から来た津波が防潮堤を超えて襲いました。一部地域が津波により孤島となりました。

④高田分団

陸前高田市役所が建っていた地域。陸前高田市の中心的な商店街がありました。避難所が低いところにあったため、市内最大の被害者を出しました。

⑤竹駒分団

広田湾内から来た津波が防潮堤を超え、さらに二級河川の気仙川を遡上した津波が海の見えない地域までを襲いました。

⑥気仙分団

気仙川を津波が遡上し、その周辺の橋と地域を破壊したため、高田町からの道を失い、岩手県から孤立しました。

⑦矢作分団

広田湾内から来た津波が防潮堤を超え、さらに二級河川の気仙川を遡上した津波が海の見えない地域を襲いました。

⑧横田分団

市内8つの町の内、唯一津波被害がなかった地域。分団の消防団員は、市内各地の応援に奔走しました。

陸前高田市消防団の皆さん、それぞれの震災体験

消防団の皆さんは、3.11当日それぞれが働いていた場所で震災に遭い、そのまま防災活動に入りました。発災時の皆さんの体験をご紹介しましょう。

団長 渡邊克己さん(横田分団)
「私は森林組合に属しており、震災当日は横田町の山で木を切っていました。普通は山にいたらあまり揺れを感じないものですが、そのときはなかなか揺れが収まりませんでした。落石だらけの山道を下りるとすぐ、横田分団へ向かいました。結局、消防団の中で唯一県庁と緊急連絡がついたのは横田分団だけ。あのとき、“陸前高田は全滅しました”と報告したことだけは覚えています。
海に面していない竹駒や矢作を見に行っても、家がなくなっている。ただごとではないと戦慄しました。

結局動けるのは横田分団だけ。自衛隊の救援が来るまでに一晩で道を通してくれという指令を受けて、その日の夜に森林会社から重機を2〜3台借りて道路を開設しました。

ただ、瓦礫を撤去するにも、相当数のご遺体が流されてきており、そのご遺体を移動させるにも警察に確認して指示を待たないといけなかったので作業はなかなか捗りませんでした」

副団長 河野吉昭さん(気仙分団)
「すでに陸前高田の町は寸断されていましたし、地域によっても、対応方法は違っていました。自衛隊が入ってからは、ご遺体を見つけた場所に印を付けては別の場所に運ぶという繰り返しでした。もう、人命を助けるという、消防団員の範疇ではない仕事になっていましたが、それでもなんとか救助できる人はいないかと、我々も懸命になっていました。

私自身は、仕事で商店街にいたところで震災に出くわしました。後ろのコンクリート壁は倒れてくるし凄かった。最初の無線では3メートル位と言っていたらしいんですが、それは聞いていなくて、傍にいた消防隊員と水門閉鎖に向かいました。

すでに気仙大橋は大渋滞になっており、車を乗り捨てて住民の避難誘導にあたりました。それから屯所へ行って指示を出して、結局残念な結果になった団員も多くいました。津波が来た時は団員に逃げろと言って、その後はもう、津波が迫って来ているのもまるで夢の世界にいるようで、恐怖も何も感じませんでしたね。気付いたら山の中腹にいました」

副団長 中山一彦さん(米崎分団)
「仕事で外にいたのですが、まわりの家の瓦が落ちてくるし、山は靄っているし、もう尋常な状態ではありませんでした。

私がいた場所からコミュニティセンターが近かったので、そちらに向かいました。すでに地域住民は集まっていたけれど、市役所の人は来ておらず、団員は手分けして自分ができる範囲で懸命に救助にあたりましたよ。団員は連絡がとれなくても、人命を救助するのが使命です。72時間3日間ほどぶっ続けで動いていましたが、もうこれは現実なのか何なのか。とても苦しかったのを覚えています」

その時、消防団員はそれぞれの場所で任務を果たしていた

村上 剛さん(小友分団)
「ちょうど竹駒町のスーパーにいました。ラジオでは30分以内に津波が到達すると言っていたので、20分以内に戻れば間に合うと思って、町中へ向かい、住宅の扉を開けては閉めて避難を促していきました。消防団では、“3回逃げてくださいと促したら、自分達も避難しろ”ということをあらかじめルールとして決めていましたので、そのルールで動きました。

津波が迫ってくる前に、何か古い家を壊すときのような臭いがしていたのを覚えています。
保育所の先生方や親御さん達で動けなくなっていた人に、とにかく“逃げろ!”と声を出しながら走っていました」

及川満伸さん(高田分団)
「私は、3時から会議があったので車で事務所を出て、松原の交差点で、ちょうど赤信号で止まっているときに災害に遭いました。信号機のランプは途中で消え、道路は揺れる、バックもできない。一度職場に戻って、会社を閉めてから消防団に向かいました。

屯所に着いてすぐ津波が来ることがわかり、“逃げなければ!”と公民館の人に避難を促して、保育所や小学校の子どもを抱きかかえて一緒に逃げました。迫ってくる津波を見たら腰が抜けるから、後ろを見ないでとにかく必死に逃げました。もしあのとき車が動いていたら、きっと市民体育館に行っていて、いまここに私はいなかったでしょう」

吉田正一さん(矢作分団)
「一人暮らしのおばあさんに声かけして回っていました。“津波が来た!”という声がして振り返ると、津波が川を逆流してくるという、あり得ない光景を目の前にして、親戚や兄弟はもうダメだなと愕然としました」

齋藤浩之さん(小友分団)
「ちょうど車に乗っていて、“揺れが長いな”としか感じていなかったのですが、いまから考えると実は津波の方へ向かっていたんですね。一年前にも大津波警報が出たことがあって、どうせ津波が来てもそんなに凄いものではないだろうと思っていました。

家へ戻って、防波堤から溢れ出してくる津波を見て、“なんだこれは”と、まるで映画を観ているようでした。消防団の袢纏を着ていましたけど、みんな呆然として、どうしようもありませんでした。もう、ただただ信じられない光景で。第二波の津波が広田側から襲って来ると、屯所も天井まで水に浸かり、消防活動すらできなくなっていました」

村上 桂さん(横田分団)
「そのときは、小友駅付近で仕事をしていました。家族のことが心配になって、クラクションを鳴らしながら家族の安全確認に走り、その後消防活動に入りました。

情報から隔絶された状態に陥っていましたので、どうやったら情報が掴めるかが死活問題でした。BSアンテナを付けている家からアンテナを引っ張ってきて発電機を使って、情報収集ができるようにしました。災害時の情報確保は重要です。電気工事の技術が役立ったなと思いました」

佐藤一男さん(米崎分団)
「牡蠣の仕込みのシーズンだったので海上で漁船に乗っていました。陸上のあちこちで土砂崩れと土煙が起こっていて、大変なことが起きたなと思いました。従業員もいるのですぐに港へ戻って避難を指示しました。水門を閉めにいく仲間もいました。

家族には“小学校の娘を迎えに行って高台に集合”と指示したんですが、実は私は本来やってはいけないことをしちゃったんですね。また家に戻って近所の一人暮らしのお年寄りの所に寄ったんです。幸い“避難しました”という札を玄関に貼ってくれていたため、中に入って探すことはなく、私も避難が間に合って助かりました。本来ならやってはいけないことです。

ずっと消防団員として防災活動をしていましたが、自分だけじゃいけない、家族にも社員にも、避難時のルールを共有しないとダメだと痛切に感じました」

金野隆博さん(消防署職員)
「私は出張で2時に庁舎へ戻ったところでした。一瞬、宮城沖地震が起きたのかと思いましたが、質の違う揺れでした。

一階の通信指令室ではすべての警報音が鳴り響き、防災行政無線はONにしっぱなし。遠隔操作と手動でなんとか154の水門と樋門を全部閉めることができたのは、日頃の訓練通りでした。操作を終えると、監視モニターで津波が大船渡線の踏切を越えてこちらへ襲ってくるのが見えました。

消防署にいた我々職員9名は、津波が来てもこの庁舎に残る役目でしたので、その場にいた人も含めて12名で3階の屋上の鉄塔の足場部分へ避難し、すし詰め状態で掴まっていました。

不思議なもので、もうだめだと思うと、パニックにも陥らないものらしく、誰もが至極静かだったのを覚えています。屋上の鉄塔の柵内にかろうじて上がっていたおかげで12名は難を逃れましたが、引き波の中、その場では見えませんでしたが、家ごと流されている誰かの“助けて”という声がどこからか聞こえていたのが忘れられません。その後、我々は自衛隊のヘリに救助され、給食センターで消防活動にあたりました」

皆さんの壮絶な体験談、そして「発災時には、救助するべき人すら見つからなかった」と、悔しそうに当時を振り返る団員の声には、慰める言葉も見つかりません。

今回集まってくださった消防団員の皆さんが、こんな風に互いの発災時の出来事を話すのは初めてのことだったそうです。多くの団員を失い、思い出したくないことを話してくださったのも、東日本大震災の教訓を少しでも多くの人々に伝えたいという、強い思いからのことでした。

あの、津波が襲ってくるニュース映像のまっ最中にいて、決死の救助活動を続けていたのが、いまここにいる消防団員の方々だったのです。

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2015/03/04