古き時代にみる、集住のヒント~長屋に生まれた江戸庶民の「個」の在り方~

価値観やライフスタイルの多様化が進む今日、多くの人が集い住まうマンションでは居住者同士の関係が希薄になりつつあると言われています。とはいえ、災害時の共助や防犯効果の向上をはじめとする集住のメリットを生かすには、“近くの他人”との円滑なコミュニケーションが欠かせません。そこで、本企画では、マンション内コミュニケーションに役立つ知恵を探るべく、密な人間関係が築かれていた江戸時代の集合住宅「長屋」の生活に迫ります。

江戸の街は現代の東京と変わらなかった!?

「向こう三軒両隣」「遠くの親戚よりも近くの他人」。これらの言葉が象徴するように、かつての日本には近所付き合いを大切にする風習が根付いていました。いわゆる“地縁”による支え合いが日常的に行われていたのです。

歴史上有数の平和な時代とされる江戸時代にも、地縁に伴う独特の習慣が存在しました。“江戸っ子の粋”ともいえるその不文律は、江戸時代の集合住宅「長屋」に広く見られたものです。

その具体例を紹介する前に、まずは江戸時代中期、後期における庶民の生活について見ていきましょう。

長屋の入り口には扉が設けられている。

当時の江戸は、地方から職を求めた人間が多数集まる経済活動の中心地でした。
土地を持たない者の多くは賃貸物件に住みます。現代ではマンション、アパート、団地、借家といった多様な選択肢がありますが、江戸の街では「長屋」に住むのが一般的でした。

中に入ると、細長い一棟の建物に複数の部屋が並ぶ。昼間は扉を開けっ放しにすることが多い。

長屋とは、一棟を仕切って、数戸が住めるように造った横長の家。その形態について『深川江戸資料館』の小張洋子さんは次のように説明します。

「地域によって造りはまちまちですが、平均的な長屋は、建物内を極薄の壁で6〜7室ほどに仕切ってあり、それぞれの部屋の大きさは4畳半から6畳程度。そこに、若者や老人の単身世帯のみならず、子どもを抱える核家族も住んでいたようです。人種のるつぼである点は、現代の東京と共通していますね」

江戸時代は武家地や寺社地が優先的に確保され、その合間を縫うような形で町民や庶民の居住地が存在していました。そこで、限られたスペースの中で大勢が住めるよう工夫したのが、長屋のスタイルだったそうです。

それぞれの家には、障子張りの扉に名前が書かれている。

間口京間2間(約3.9m)・奥行2間の規模で、居室部分が6畳ほどの長屋の一部を復元した江戸東京博物館の展示。実際はもっと狭い空間で暮らしている庶民が多かったと考えられる。 ※写真は江戸東京博物館所蔵

長屋で育む家族、親戚、親友レベルの人間関係

今日の集合住宅のルーツといえる長屋には、昨今あまり見られなくなった住民同士のやり取りが存在しました。生活必需品の貸し借りは、その代表例。「調味料、米などの貸し借りがひんぱんに行われていたほか、食材や料理のお裾分けも日常的に行われていたようです」と小張さんは言います。

貸し借りが行われていた食器や台所用品。すり鉢、ざる、桶のほか、土鍋や七輪などが一般的。

同じく生活用品として一般的だった、米びつ、おひつ、酒瓶。

自宅に足りないものがあった場合、ウエットな近所付き合いをするくらいなら、コンビニやスーパーに買いに行こうとするのが、今どきの発想です。また、お裾分けについても、押しつけと感じられることを恐れ、積極的になれない人が少なくないでしょう。ところが、こんな考え方は江戸時代にはあり得なかったようです。

「江戸庶民の大多数は固定資産を持たず、仲間同士の支え合いがなければ生活が成り立たないほど貧しい経済状態にありました。そのため、長屋の住人同士は強く結びつき、日常的に相互扶助が行われていたのです。

彼らの人間関係は、家族、親戚、親友レベルの近さですから、物の貸し借りや供与について遠慮などはありません。世の中的にも“弱者は援助を受けるのが当然”という考えが一般的だったため、経済的に困っていた住民は、余裕のある住民から生活用品の提供や資金援助を受けていました。

いわば、“個人の所有物は長屋の共有財産”という共通認識が、長屋の住民間で出来上がっていたということです」(『東京都江戸東京博物館』学芸員・市川寛明さん)

集合住宅には多様な「個」が集うものですが、江戸の長屋では「個」の尊重よりも「共」の強化を図ることで、コミュニティを安定させていたようです。

とはいえ、住民同士のモノの貸し借りや生活資金の供与は明文化されたルールではないので、人付き合いをせずに暮らすことも決してとがめられる行為ではありません。それでも、住民同士が利己的な行動に走らず支え合いを行っていた背景には、江戸庶民に根付く高度な「モラル・エコノミー」が強く影響しているのだとか。

「江戸庶民の間では、“人を不快にさせてはいけない”“自分が持っているものは他人と分かち合わなくてはならない”といった考え方が常識でした。これがいわゆる江戸っ子の粋だったのです。

また、彼らの中には“社会の富は常に一定”という観念があり、自分に余裕があるときはその分他の人が貧しているとも考えていました。この観念と高いモラル・エコノミーが、他人の不利益を顧みず個人の幸せを追求しようとする利己心を律していたのです。

たとえば、偶然お金を儲けても、隣近所の住人を呼び集めてご馳走し、散財してしまったりします。そうしないと、彼らはたちまち罪悪感にさいなまれてしまうわけです」(市川さん)

「困っている人を助けたい」という気持ちは、人間であれば誰しも心に秘める普遍的な感情といえるでしょう。また、自身の生活に余裕がないと他人を支えられないのも当然のこと。この辺りの感覚は江戸時代も現代も変わるものではありません。ただ、生活の余裕を感じる基準は時代によって大きく異なっていたようです。

たとえば現代人は、個人差はあれ、向こう1〜2年間の生活に困らないくらいの貯金がない限り「他人に恵むほどの経済的余裕がある」と実感できないのではないでしょうか。一方、現代人に比べ遥かに貧しいはずの江戸庶民は、逆に余裕を感じていたりします。

江戸っ子の暮らしを現在の貨幣価値に置き換えた「江戸の卵は1個400円」(著:丸太勲/光文社)によれば、裏長屋の家賃は月額8千円〜1万2千円。現在の賃貸物件と比較すると格安である。

その理由は、江戸庶民の経済的余裕の基準の驚くべき低さにありました。彼らの基準では、1日の稼ぎの中から、その日の家賃、食費、翌日働けなかったときの蓄えを引いた分が“余り”。つまり、翌々日以降のことは、ほとんど考えていないのです! これは江戸庶民が文字通りのその日暮らしであり、若いうちから老後の心配をしている現代人と比べ、彼らがいかに刹那的だったかが窺い知れることでしょう。

とはいえ、江戸庶民は常に悲壮感を漂わせながら生活していたわけではありません。密なコミュニティに属し、互いに助け合いながら過ごす毎日は、精神的な豊さを失いつつある現代より幸せな側面もあったようです。

価値観や社会背景が異なるため、当時の習慣を現代にそのまま取り入れることは不可能ですが、その上で江戸庶民の生き様から良好なコミュニティを形成するヒントを探るとしたら?

それは、これまで「個」の充実のために使ってきた各種の資源(お金、モノ、時間など)を、少しでも「共」のために使ってみることではないでしょうか。それを続けることによって、現代の集住に適した形で住民同士の連帯が生まれていくのかもしれません。

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2014/09/08