日本最古のマンション? “軍艦島”に学ぶマンションライフ

“軍艦島”住宅での生活と、今も残るその面影

前のページでは端島(軍艦島)がたどった栄枯盛衰の歴史と、そこに建てられた歴史的価値の高い集合住宅群を紹介しました。

島の住宅は現在のマンションと比べて決して便利とはいえないかもしれませんが、人々は毎日を活き活きと暮らし、島での生活を楽しんでいたといいます。

そこには、“軍艦島”ならではの生活の知恵、そして日々を楽しく暮らす工夫がありました。

“軍艦島”に暮らした人々

端島は2001年に三菱マテリアルから長崎県の高島町へ無料譲渡されるまで、三菱グループ企業が所有していました。つまり、この島で生活をしていたほとんどの人は、三菱社や三菱鉱業など、当時の島の持ち主だった企業で働いていた社員とその家族だったのです。

社員は事務作業を行う“職員”と、採炭作業を行う“鉱員”とに大きく分かれていました。

彼らは端島にやってくると、会社が割り当てた部屋に住みました。職員は職員同士、鉱員は鉱員同士で暮らしていたため、当時、それぞれの住宅は「職員社宅」「鉱員社宅」とよばれました。それぞれの集合住宅は建てられた年代などによって材質や部屋の間取り、広さなどが違います。こうした集合住宅が、島全体に林立していたのです。

せまい路地をはさんで立ち並ぶ集合住宅群。主婦たちが買い物に出かけている様子。(撮影:伊藤千行 年代不詳)

最後まで島にあった唯一の木造一軒家は、「鉱長社宅」でした。そこには名前の通り、端島の炭鉱を取り仕切る“鉱長”が住みました。

ほかにも、学校の教職員が住んでいた「教員用住宅」、下請会社の社員が住む「下請飯場」など、住む人の立場によって住宅のよび名が決められていました。

また、鉱員社宅のほとんどがRC造の住宅だったのに対し、職員社宅の多くは木造。そのため、今も島で原形をとどめている建物のほとんどは鉱員社宅です。

集合住宅の設備事情

島にあった集合住宅には名前だけでなく設備面の違いもありました。その最たるものはトイレや浴室、炊事場といった水回りでした。

本土から端島まで海底水道が引かれたのは1957年のこと。それまで水は大変貴重なものでした。水道が引かれる前、個人宅で内風呂がついていたのは、鉱長社宅のみだったとされています。そのほかの人々は、共同浴場を利用していました。

島にいくつかあった、かつての共同浴場の跡。ここで毎日、大勢の人々が労働の疲れをとっていたのでしょう。

その共同浴場も、はじめは職員家族用と鉱員用に別れていました。

しかし、1965年に島を襲った台風で鉱員用の共同浴場が使用不可能となったため、区別はなくなったとされています。また、そのころには一部の幹部職員が住む共同住宅にも、個別の浴室が設けられるようになっていました。

トイレは汲み取り式が主流で、多くは共同トイレでした。鉱員社宅の各階に一カ所ずつあった共同トイレでは、建物の外に取りつけた配管を通じて排泄物を集めていました。

1918年に建てられた16~20号棟からなる「日給社宅」には、各階に3カ所ずつ共同トイレが設置されていました。このトイレは、手桶を使ってあらかじめ汲んでおいた海水で流す、手動の水洗トイレでした。この建物から出る排泄物は、海に流していたそうです。

ただし、のちに伝染病などの発生原因になるとして、配管の途中に浄化槽が設けられました。昭和30年代に入ってから建てられた集合住宅には、現代と同じような下水方式の水洗トイレが備えられるようになったといいます。

炊事に使う水は、海底水道が開通するまでは給水場に汲みにいき、各家庭の台所に置いた水槽などに貯めていました。野菜などは外にあった共同炊事場で洗っていたようです。

台所には当初、かまどを備えた家が多くありましたが、時代とともにガスコンロや電熱コンロが普及していきました。

シンクやトースターなどが見える、モダンなキッチン。海底水道の完成は、人々の生活を一変させたといわれています。(撮影:伊藤千行 年代不詳)

水を貯めるのに使っていたと思われるかめが、現在も残されています。

人々の日常生活

人々でにぎわう青空市場。さまざまな野菜が並べられています。(撮影:伊藤千行 年代不詳)

端島では、水だけでなく食料も本土からの輸送に頼っていました。野菜や魚介類はおもに長崎(野母)半島の海岸から毎日運ばれ、島内の「青空市場」とよばれた露天の店などで売られていました。

ただし、時化になると2~3日の間船が航行できず、食料が手に入らないこともあったといいます。そのため、時化の予報が出ると、青空市場は買いだめをする人々で普段以上に混み合いました。

じつは当時の島の人たちは、本土に暮らす人々よりも裕福な生活をおくっていました。給料が高いうえに、家賃や光熱費は会社が補助していたため、自由に使えるお金が多かったのです。

戦後の高度成長期になると、端島の人々はいち早く家電製品を生活のなかに取り入れました。当時の人々の羨望の的だったテレビ、冷蔵庫、洗濯機のいわゆる“三種の神器”所有率も高く、島内に暮らす世帯のほぼ100%が持っていたともいわれています。

集合住宅の、ある室内の様子。テレビの脇にはステレオがあり、さらにその隣に並ぶ棚には洋酒がずらりと並んでいます。(撮影:伊藤千行 1960年代頃)

しかし、こうした豊かな暮らしは、危険のうえに成り立っていたのです。

とくに鉱員は、多くの現金給与をもらっていましたが、そこには少なからぬ危険手当が上乗せされていたのです。炭鉱での仕事は落盤や浸水など、つねに命を失う危険と隣り合わせでした。実際、1935年に発生した炭鉱でのガス爆発事故では、25人もの作業員が命を落としました。

炭鉱に足を踏み入れなくても、端島では本土以上に気をつけることがありました。

学校で行われた消火訓練の様子。(撮影:伊藤千行 1959年)

そのひとつが、火災です。建物が密集し、つねに強い風が吹く場所であるうえに人口密度も高い島内では、火災が起きると甚大な被害につながることが多かったのです。

そのため、戦前から海水を使った消火栓が島全域に設置され、消防団も組織されていました。

そして、もうひとつ恐れられていたのが“荒波”。台風が島を直撃するたびに島を打った高波は、7階建ての集合住宅を超えるものもあったといいます。

それも、単に海水をかぶるだけではありません。

波の力で護岸の積み石が崩壊すると、その破片が波に乗り、砲弾のように町中に降り注ぎました。台風でなくても少し波が荒い日には、潮が町中に降り注ぐことも珍しくなかったといいます。

そのため、島最大の集合住宅である65号棟の辺りは、“潮降り町”とよばれました。

大きな波が島にたたきつけ、人々は写真右端の建物の上に避難しています。(撮影:伊藤千行 1956年)

軍艦島生活に暮らした人々の楽しみ

さまざまな危険のあった端島でも、人々は毎日を楽しく過ごしていたといいます。それをもっともよく示すのは、集合住宅の上に設けられた「青空農園」です。

最近は共用部に菜園を設けているマンションが増えていますが、まさにこれはその先駆けといえるもの。島の人たちは遠足や海水浴で本土に出かけるたびに少しずつ土を持ち帰り、1963年ころにできあがりました。

青空農園は「日給社宅」の一部である18号棟の屋上に作られました。(撮影:伊藤千行 1963年頃)

農園の周囲にはテレビ用と思われるたくさんのアンテナが立っています。(撮影:伊藤千行 1963年頃)

「青空農園」には水田もあって、小規模な稲作をしていたといいます。端島は動植物が少なく、“緑なき島”ともよばれていました。ですから、この青空農園が人々にとって貴重な憩いの場となったのは想像に難くありません。

また、文化的な施設としては、島唯一の映画館「昭和館」がありました。1927年に建てられた建物で、一般家庭にテレビが普及するまで、島の多くの人々はここで映画や歌謡ショーの鑑賞を楽しんだのです。

昭和館で行われた、バンド演奏に詰めかけた島民たち。オーケストラボックスも備えた立派なホールでした。(撮影:伊藤千行 年代不詳)

さらに島には子どものための施設もありました。それが、65号棟の屋上にあった、保育園や幼稚園の役割を担っていた託児施設です。

屋上には滑り台付きの幼児用プールがあり、建物の敷地内にあった「子供遊園地」にはブランコやシーソーなどの遊具が置かれ、絶好の遊び場になっていました。

写真左)建物の屋上に保育施設が見えます。(撮影:伊藤千行 1967年) /写真右)65号棟の屋上に残っている滑り台つきの幼児用プール。サビついてはいますが、原形をとどめています。

端島での暮らしには、たしかに不便や苦労も多くありました。しかし、人々はそれを受け入れ、島の環境に適応しながらたくましく生活をしていたのです。そして自ら生活に工夫を凝らし、日々のなかに楽しみを見出していたのでしょう。

しかし、そうした人々の暮らしも、端島炭鉱の閉鎖とともに終わりを告げました。現在では朽ちかけた集合住宅群と、かつて住人たちが暮らした痕跡が残るばかりです。そんな“軍艦島”は今、新たな役割を担おうとしています。次のページでは、現在の“軍艦島”の姿と島を取りまく状況をみていきましょう。

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2013/07/16