陸前高田から学ぶ防災の教訓~観光ガイドさんが教えてくれた被災体験~

東日本大震災から4年。

あれほど恐ろしかった災害の記憶が、被災地以外の人の心から薄れつつあるような気がします。
いま、被災地はどうなっているのか。
災害から復興していくというのはどういうことなのか。

マンション・ラボ編集部は、4年経ったいまだからこそ、陸前高田市・大船渡市を訪ねて、そこに住むさまざまな人たちから、現在置かれている状況や災害のお話を伺うことにしました。それはきっとマンションに住む皆さんにも、もう一度防災を考え直すきっかけとなるにちがいない。私達はそんな思いを抱いて、陸前高田市に向かいました。

震災から4年、陸前高田のいまから学ぶ“みらいの防災”

陸前高田市は、東日本大震災の被災地の中でも甚大な被害を受けた場所です。あの日、津波が押し寄せる映像を、誰もが恐ろしいほどの無力感に打ちのめされながら声もなく見守りました。その場所は、いまどうなっているのでしょうか。

マンション・ラボでは、今回から4回シリーズの記事として、

・陸前高田市の観光ガイドさん
・陸前高田市の仮設住宅にお住まいのシニアの方々
・陸前高田市・大船渡市で乳幼児を守った保育園の保育士さん
・陸前高田市を守ることに尽力された陸前高田市消防団の方々

に被災体験をお伺いし、その体験をいかにこれから“みらいの防災”へとつなげていくか考えていきたいと思います。自然災害の脅威にさらされたとき、人間はどんな行動をしたらいいのか、どうやって大切な人を守るのか、皆さんの行動とアドバイスを伺いながら、一緒に考えていきたいと思います。

今回の陸前高田市・大船渡市への旅には、危機管理アドバイザーの国崎信江先生が同行してくださいました。国崎先生は、震災後すぐに被災地の大船渡市・陸前高田市に救援物資を持ってかけつけ、その後現在にいたるまで私的に支援活動を続けておられます。

私達は、東北新幹線の一ノ関駅から車で、陸前高田市へ向かいました。古い商店の残る道筋を抜けて、私達の乗る車が陸前高田の市街地へ近づいていきます。そこは一面の平地。草が生い茂り、かつて市役所庁舎や商店のあった中心地だった面影はありません。そして、この海すらも見えない平地に、津波が襲ってきたとはまったく想像もできません。あれが庁舎、あちらが市民会館。避難所として指定されていた市民会館は、最も犠牲者が多い場所でした。市中心部は壊滅し、市の全世帯のうち4割以上が被害を受けたのでした。

もしも私達がここに住んでいたなら、やはり津波が襲ってくるとは思いもよらなかったことでしょう。100〜200年の間、市街地までは津波の被害に遭っていなかったことも、被害を大きくする結果となりました。

1977年、岩手県陸前高田市中心部周辺の空中写真。Cto-77-8_c20c の 2・3・4・5 の合計 4 枚を合成作成。国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省

私達はまず、陸前高田市の仮庁舎で、陸前高田観光ガイドの河野正義さんと会って、街の案内をお願いすることにしました。

陸前高田市観光ガイド(陸前高田観光物産協会)
http://www.3riku.jp/kanko/kanko-guide/kanko-guide.html

陸前高田観光ガイド河野さんのご実家は、醤油・味噌醸造業「八木澤商店」。お店や工場は失われてしまいましたが、ファンド募集で資金調達を行い、再建に漕ぎ着けました。お店再建の経緯は、「ほぼ日刊イトイ新聞」に詳しく紹介されています。いまでは、陸前矢作の本店と一本松店の販売所ができています。

八木澤商店
http://www.yagisawa-s.co.jp

ガイドの河野さんに案内していただき、震災遺構となった「旧道の駅 高田松原タピック45」から旧気仙中学校を巡りながら津波被害の実態と復興への取り組みを目のあたりにしました。

旧道の駅。建物の「高田松原」の文字の位置まで津波が襲いました。いまも、なぎ倒された無残な姿の松の木が壊れた建物に食い込んでいます。

しかしなにより目を見張ったのは、旧市街を縦断する巨大なベルコンベアーのパイプラインの姿です。

山を切り崩して土砂を運ぶこのコンベアのおかげで、市街地のかさ上げ工事がかなり短縮できたそうです。第1期工事の完了予定は来年。すべてのかさ上げが完成するまでにはまだ5〜6年かかるそうです。

工事中の海岸。かつての松原には、12.5メートルの高さの堤防を築かれます。もうここから海を見ることはできないでしょうか。

「高田地区海岸災害復旧工事」の計画概要。第一堤防の高さが約3.0メートル、約100メートル離れた場所の第二堤防の高さが約12.5メートルとなります。

「奇跡の一本松」では、万一のことを考えてその近くまでは行かず、旧気仙中学校の方から、一本松を眺めることができる場所に案内してくださいました。
気仙中学校は、河野さんの母校。当時、学校で卒業式の練習をしていた学生達は、皆裏山に逃げ込んで全員無事でした。

「自然災害を防ぐことはできなくても、津波が来ると分かったら高台に逃げるとか、私達の心がけと迅速な行動次第で命を守ることはできるのです」と河野さん。そのときの判断と行動の差が、生死を分けます。とっさのときには、ここまで来ればいいという中途半端な気持ちではなく、本気で死に物狂いで行けるところまで逃げるしかありません。

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2015/01/16

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